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連帯保証という人柱
ウチの親は30代半ばで、3千万の借金を抱えました。
しかしこれは、自分達が作った借金ではない。住宅ローンといったものでもない。
借金の主は、母の弟(私の叔父)。内訳は事業資金だった。

この叔父は、いわゆる「本家の跡取り息子」です。
母方の本家は、農業を営んでいました。叔父はそれを引き継いだ。
けど、甘やかされ蝶よ花よ(男だけど)で育てられたこのボンボン。

後を継いだ途端、新しい車が欲しいだの、ボロ屋じゃなく新築がいいとほざいた。
そして、新車を購入し、新しい家を建て、祖父母の預金を使い果たしてしまった。
叔父は人柄は悪くない。どちらかというとお人よし。
でも所詮は「人がいいだけ」の、ぼんくら男。

身の丈に合わせ、大人しく畑仕事だけしてりゃいいものを。
なにを思ったのか、次は事業拡張をもくろんだ。
けど事業に必要な資金は使い果たし、手元には残っていない。

そこで、ウチの親を連帯保証人にして、事業資金を借り入れた。

しかし。この叔父に、事業拡張するような才覚も器もなかった。
甘ったれた人間が、甘い考えと、甘い見通しで行う事業。
当然のことながら、その後わずか3年でギブアップすることとなる。

叔父「借金が返せない。俺には無理だった。事業はもうやめた」
となり、全ての債務を肩代わりする羽目になった。

当時の私は、まだ小学3年生。けど、今でも覚えてます。
この借金肩代わりが決まった時の、ウチの親の絶望的な顔。

弁済決定後は、一括か分割かの返済方法の選択を迫られます。
けど、残債を一括返済できる余裕などない。

農業を営んでいたウチの親も、農家特有の借金を抱えていた。
農家というのは、設備投資だ機材代だと、非常にコストがかかる職業です。

無借金経営が一番だけど、これが中々難しい。農機具ってのは元値が高い。
トラクターなんて、新品で買ったら1千万。中古でも数百万する。
作物運搬用のトラックも必要だし、資材や肥料代もかかる。

常に何かしら、借入をしている状況だった。
そんな自分達の借金と、叔父の借金。これらを2重で返済しなければいけない。

専業農家は、動かすお金が大きい割に、儲けは少ない職業です。
農作物なので、天候による豊作不作、市場価格の影響をモロに受ける。
「今年はこれだけ収入がある」という、保証はどこにもない。

そこでウチの親は、無理のない・確実に返済できる方法を選択した。
それが30年での分割返済。70才近くになるまで支払いが続く。

この借金は住宅ローンと違い、繰り上げ返済といったシステムがなかった。
総支払額は、最初の時点で既に決定されている。

つまり “ 10年後・20年後に、途中で一括返済する ”

が仮に出来たとしても、30年分の利子を支払らうことになるのです。


続きます。

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過去のこと | 09:51:27
あの日、あの時、あの場所へ
前回の続きです。
この話はこれが最後になります。

お土産を持っていったあの日。家の中へ通されたあの時。
2人は私を囲むように、ちょこんと正座をした。
身を乗り出し、顔を覗き込みながら、話を聞いてくれた。

今ならわかる。
嫌いな孫に、こんなことしてくれるはずはないんだと。
じいちゃんばあちゃんは「好きだよ」というサインを出していた。
それなのに、私は見ようとしなかった。

母が入退院を繰り返していた時期。
祖母は毎日毎日、ウチへ来て面倒見てくれた。

家事が全くできない父の代わりに、掃除も洗濯もご飯支度も全部祖母がやってくれた。
自分の仕事があるのに、祖父はウチの畑仕事も手伝ってくれた。

確かに母が言うように、困った時「お金」で助けてはくれなかったかもしれない。
でも、自分たちの時間を、私たち家族のために費やしてくれた。


振り返って思う。
ちゃんと言ったことがあっただろうか。

ばあちゃん。ご飯おいしかったよ。ありがとう。
じいちゃん。忙しいのに、お手伝い来てくれてありがとう。
じいちゃんばあちゃん。大好きだよ。

感謝の言葉。好きだという気持ち。
大切なことをなにひとつ言って来なかった。
大きな忘れ物をしてきた。

与えてもらうことばかり考えていた。
困った時は、助けてくれて当然だと考えていた。
自分から何かを与えるとか、はたらきかけることをしてこなかった。

昔読んだ本で、こんな言葉があった。

おばあちゃんから1万円をもらったら君は大喜びするだろう。
でも、お姉ちゃんが2万円をもらったと知ったら、がっかりするのではないだろうか。

君が1万円をもらったことに、変わりはないのになぜだろう。


この「君」が考えてることは私と一緒だ。
自分が受けた愛情に変わりはないのに
他の孫(いとこ)と比較して、ひがんでいた自分だ。

私はこれまで、後悔するような生き方をしてきていない。
過去へ戻って、これまでの人生をやり直したい。
などと考えたこともなかった。

でもたったひとつだけ、悔やんでいることがある。
それは、じいちゃんばあちゃんへ、言うべき言葉を伝えなかったこと。

もしも。
一日だけ過去へ戻ることが出来るとしたら、どこへ戻りたいか。
こう聞かれたら、迷わずこう答える。

私が東京へ旅立つ日。
じいちゃんとばあちゃんが、励ましに来てくれたあの時に戻りたい。
そして言いたい。

じいちゃんとばあちゃん。
ひ孫の顔見せるから、絶対に長生きしてね。と。





過去のこと | 08:20:49
嫌いなはずなのに
前回の続きです。

高校で、修学旅行へ行った時のこと。
お土産を買う時に、何気なく祖父母の分も一緒に購入した。
買ったのは、10個入りのもみじまんじゅう。

嫌いだもん。
そう思っているはずなのに、無意識に買っていた。

家へ帰って、父から渡してもらうとすると
「それは、まどりんが直接じいさん達へ渡してこい」
と言うので、渋々祖父母の家へ渡しに行きました。

この時の私の気持ちは、ただただ
「ヤだなあ。顔合わせたくないなあ。さっさと帰ってこよう」
重い足取りながらも、祖父母の家へ到着します。すると。

祖母「まどりん?どうしたんだい?」
私 「はいこれ。修学旅行のおみやげ」
祖母「あら!まあまあ!」

驚いたかと思ったら、大きな声で祖父を呼びます。
祖母「あなた!まどりんが、おみやげ持ってきてくれたわよ!」

奥にいた祖父まで、玄関先まで来てくれた。そして。
祖父「おみやげ買ってきてくれたのか?」
祖母「どこに行ってきたの?あ、ほら上がって上がって」

玄関先でおいとまするつもりが、そのまま家の中へ通されます。
受け取った後は「ありがとう。じゃあね」で、ハイ終了。
そう思ってた私は、この反応に戸惑ってしまいました。

通されたあとは、質問攻め。
どこへ行ってきたの?何日間行ってきたの?
向こうの食べ物は美味しかったかい?楽しかったかい?

何年ぶりだろう。こんなに喋るのは。
じいちゃんちに上がるのも、すごい久しぶりだな。
すぐ裏に住んでるのに、ずっと避けてきた。

なつかしいな。ちっちゃい頃は、この家へよく遊びに来てた。
まとわりついて、畑仕事の邪魔もしてたっけ。
そんなことを思いながら話をしていたら

祖父「そういえば、まどりんへ小遣い渡してなかったよな」
そう言うと三千円渡してきました。再びの驚き。これはすぐお断りしました。
そんなつもりで買ってきたわけじゃない。

私 「小遣いは、お父さんから貰ったから大丈夫」
祖母「それはそれ。これは私達からだよ」
私 「でも、貰ったらお父さんに怒られる」
祖父「じゃあ内緒にしておきなさい。いいから取っておきなさい」

そうして、お札を握り渡されます。
こうしてくれる祖父母の気持ちが、当時の私にはわかりませんでした。

なんでだろ。そんなにもみじまんじゅうが好きだったのかな。
だったら、もっといっぱい入ったやつ買ってくれば良かった。
そんな風にしか考えられなかった。

でも違った。祖父母は品物が嬉しかったんじゃなかった。
旅先で、自分達のことを一瞬でも思い出し、こうして買ってきた。
その気持ちをとても喜んでくれたんだった。

続きます。

過去のこと | 08:36:31
見えなかった愛情
前回の続きです。

寝たきりになってから5年後。
私が娘を産んですぐ。入れ違うように祖父は逝ってしまいました。
そして、この間に色々な事実を知ることとなります。

祖父と叔父の諍いの原因。それは私にあった。
叔父には、私より1つ年下の息子(トシくんとします)がいる。
トシくんは、高校卒業後に専門学校へ進学するつもりだった。

けど、浪費家の叔父に、学費を工面できるような蓄えはない。
そこでいつものように、祖父へ援助を求めにやってくる。
しかし。祖父はこのお願いを突っぱねた。そして、こうも言ったという。

祖父「女のまどりんでさえ、遠くで働きながら頑張ってるんだ。
   トシだって、自分のことは自分でできるだろう」

今までとは違う対応に、叔父はかなり怒ったらしいです。
それまで、叔父一家は祖父の家へよく遊びにきていた。
けど、この出来事以降、ぱったりと来なくなってしまった。

苦労人の祖父と、甘い考えの叔父に隔たりもあった。
これが発端となり、最終的に祖父と叔父は絶縁にまで至ってしまう。

そして。
祖父が亡くなってから一年後のこと。
父から思いもよらない事実を告げられます。

父 「じいさん達が、まどりんに預金を残してたぞ」
私 「え?どういうこと」
父 「出てきたんだ。お前名義の通帳が」

まさか。そんな事をしてくれてるとは、思ってもいなかった。

父 「いやな。実は、お前が東京へ行くときに言われたんだ」
私 「なにを?」
父 「何で相談しなかったんだ。学費くらい出してやったのに。って」

初耳でした。私の事など関心がない。
学校など高校までで充分だ。さっさと自立しろ。
そう考えてるとばかり思っていた。
喜びよりも、驚きの方が大きい。戸惑ってしまった。

父 「俺が持ってるわけにもいかないから、渡しておくぞ」
私 「いや、いい。それは受け取れない」
父 「じいさん達の気持ちだ。せっかく残してくれたんだ。持ってけ」

これまで私は、祖父母へ冷たい態度を取ってきた。
今更「はい、そうですか。ありがとう」と受け取るなんてできない。

私 「持ってると使っちゃうから、お父さんが持ってて」
そう言うのがやっとだった。

自分は嫌われてる。愛されていない。
そうずっと思い続けてきた。
今になって「それは違う」と、知っても簡単に受け入れることができなかった。

祖父母はちゃんと愛情をそそいでくれていた。
そう気がついたのは、大分後になってからでした。

続きます。

過去のこと | 09:43:59
しなる事を知らない枝
前回の続きです。

幸いな事に、発見が早かったので一命はとりとめました。
ただ、命は助かったものの。意識はない。体も動かない。
祖母同様、寝たきりの入院生活を送ることとなってしまいます。

なぜ?どうして?
あれほど意志が強く、逆境をバネにして生きてきた人なのに。
私には、祖父が自ら死を選ぶ理由が、全くわかりませんでした。

ただ。
私が実家を離れてから、色々なトラブルがあったようです。
これまで、叔父へ多額の援助をしてきた祖父。
借りるのはいいけど、返済を一円もしてこなかった。

それどころか、また祖父からお金を引っ張ろうとした。
そんなだらしのない態度に、業を煮やし諍いになった。
最後は、親子の縁まで切ってしまう。叔父を勘当してしまう。

叔父を勘当した後は、次男坊の父へこう宣言する。
「これから、俺の財産や墓守は、お前に任せる」と。

しかし、これに納得いかないのがウチの母。
「今頃になって、そんな事されても嬉しくない」

まあ、母の言い分はわかる。
何十年にも渡った恨みは、そうそう簡単に氷解するものではない。

けど当時の祖父は、祖母を亡くし1人暮らしだった。
いくらしっかりしてる祖父とはいえ、もう80近い高齢。
ウチの実家で、一緒に住んだ方がいいんじゃないの?と、聞いてみました。
しかし。この提案には、母ではなく祖父が拒絶反応を示した。

祖父「俺は、子供達に面倒見てもらうつもりはない!!」

このセリフは、私も昔から常々聞いてきました。
とにかく、自分の弱みを見せるとか、頼るという行為をよしとしない。
意地っ張りで頑固者。そんな性格が災いした。

これまで、自分の力で運命を切り開いてきた。
助けることはあっても、助けられるのはごめんだ。
俺は、1人でもちゃんと生きていける。

最後の最後まで、そうやって意地を貫き通した。
周囲の人間も、そんな強がりを真に受けてしまった。

若い頃はそれでよかったかもしれない。
でも、やっぱり高齢になると状況は変わる。体はどんどん衰えてくる。
晩年は緑内障を患い、農作業もできなかった。

ド田舎の一軒家なので、近所付き合いはない。
気のおける友人も祖父にはいない。たまに父が様子を見に行くだけ。
1人で過ごす日々が続く。本人「気楽でいいぞ」と言ってたものの。

きっと強がっていたんだろうな。

「誰にも頼らず生きてきた。死ぬまで俺はそうする」
と言ってきた手前、今更他人を頼ることができなかった。
いや。頼る術を知らなかったのかもしれない。

自ら死を選んだその瞬間。
じいちゃんは、一体なにを思っていたんだろう。

続きます。






過去のこと | 09:05:02
間違った判断
前回の続きです。

この、不満だらけの生活に終止符を打ちたい。
家を離れ、誰も知ってる人がいない場所で、一からスタートしたい。

そう考え、高校卒業後は、地元を離れ東京へ行くことにした。
新聞配達をしながら専門学校へ通う。という選択をします。

このことを知った祖父母は、東京へ旅立つ前日。
家まで来て、私を励ましてくれました。

祖父「えらいなあ。苦労しても後でちゃんと返ってくるから頑張れよ」
祖母「体には気をつけるんだよ」
祖父「俺の孫だから大丈夫だ。しっかりやってけるぞ」

せっかく頑張れと言いに来てくれたのに、私はというと。
俺の孫?こういう時だけ、孫扱いするんだな。
普段はほったらかしのくせに。と、斜にかまえ、おざなりな対応をした。
照れくささも加わり、ちゃんとお礼も言わずにさよならしてしまう。

そして。
祖母と喋った、元気な姿を見たのは、これが最後となる。

私が上京した年の秋。
祖母は家の階段から落ち、腰を強打。
打ちどころが悪く、寝たきりになりそのまま亡くなってしまった。

上京後の私は、正直言って故郷のことを忘れかけていた。
日々の生活は忙しく大変ではあった。けれども充実して楽しい。
祖母の死は、どこか他人事のように感じていた。

そうして、祖母の死から5年後。
私は、ダンナと結婚することが決まった。
入籍の前に、実家へダンナと2人で報告へ行きます。

突然「結婚する」と、帰省した私達に驚きはしたものの、快く承諾してくれる。
そしてウチの親から「式はどうするのか」と聞かれた。けど。

私は元々、結婚式を挙げるつもりはなかった。
写真だけ撮って、あとは顔合わせして終わらせるつもりでした。
この時、私達は引越やら転職やらでバタバタしていた。

とりあえず、親だけには報告を済ませる。
今回の帰省は、それだけが目的でした。
すると、帰り間際に父からこう聞かれます。

父「じいさんに、結婚するって言いに行かなくていいか?」

当時、祖父は祖母に先だたれ一人暮らし
頑固で強がりな人だけど、きっとさびしい生活なんだろうな。
結婚するって知ったら、喜んでくれるかな。驚くかな。と思ったものの。
私はちょっと迷って、こう返事します。

私 「うーん。いいかな。お父さんから言っといてよ」
父 「俺から言っとくのか」
私 「うん。後で、落ち着いてから挨拶行くから、今回はいいや」

けれども。
この判断をしたことを後々、後悔することとなる。
私の口から、もう二度と祖父へ報告することはできなくなってしまった。

なぜなら。
3ヶ月後に、祖父は農薬を飲んで自殺を図ってしまうから。

続きます。

過去のこと | 09:14:33
悪者をつくる
前回の続きです。

今となっては、祖父母がそう言った理由がわかります。

一昔前の貧しい農村だったら、堕胎など当たり前。
子供を間引きしたり、里子へ出すこともよくあった。

そして、父がお金を借りに行った理由もわかる。
当時祖父母は、叔父(父の兄)へ、たくさん援助をしていた。
事業を起こす・撤退する。その度に、祖父がお金を渡していた。

だったら、うちの出産費用くらい、面倒みてくれるだろう。
父がそう考えるのも、無理はなかったと思います。
けれども、いざ蓋を開けてみると「自分で何とかしろ」

この件について、父から一切なにも教えてもらってません。
全て父のいない場で、母からこっそり教わった内容です。

父は、愚痴や不満をあまり口に出さない人です。
自分の胸に秘めて、淡々と消化していく気質。

対して母は、思った事はそのまま口に出したい気質。
喋る事でストレスを発散するタイプ。
けれども、母には話の合う友人らしい友人がいなかった。

当時の母にとって、愚痴を話せる相手。それは私だった。
今思えば「これ、子供に話すような内容じゃないよな」
というような事も、どんどん打ち明け相談してきた。

母からすると、困った時に助けてもらえなかった。
体調を崩して入院しても、心配してもらえなかった。
孫(私達姉弟)へお年玉も、入学祝もくれたことがない。

相当、不満がたまっていたようです。
加えて、当時の実家は借金を抱え、弟の知的障害まで発覚。
父はいつもピリピリしていたし、家の空気も暗かった。

周りを見渡せば、みんな普通の生活をしている。
なのにウチだけは、いい事が何ひとつない。誰も助けてくれない。
どうして、こんなに苦労しなければいけないのか。

自分以外の人間は、みな幸せそうに見えた。

半ばやつあたり気味に、祖父母への態度が冷たくなっていく。
祖父母を悪者にすることで、精神のバランスを保とうとしていた。
敵をつくる・悪者をつくることで、不満を解消しようとしていた。

悲観して諦める。くよくよ泣いて過ごす。
それよりは「こんちくちょう」と、憎しみをエネルギーにする。
その方が、前へ進む力になるといえばなる。

目先だけを見たら、この方法は有効かもしれない。
けど長い目で見ると、結局は自分へ跳ね返ってくる。
自らが出した毒で、じわじわと自分自身が侵され行く。

自分から距離を置いたくせに、他の孫(いとこ)を可愛がるのを見ては
「やっぱりね。どうせ私のことは嫌いなんだ」
と1人でひがんでいた。妬んでいた。

反抗期も重なって、かなりささくれだっていました。


続きます。

過去のこと | 10:17:07
いじけ虫
前回の続きです。

私が産まれた当時の実家は、とても貧しかった。
結婚した当初は、食べるのがやっと。貯蓄もできない。
そんな時に、母が私を身ごもる。しかし、出産費用も捻出できない状況だった。

そこで父が祖父へ
「分娩費用のお金を借りたい。ちゃんと返すから」
と、お願いに行ったそうです。すると。

「お金がない?だったら、堕ろしてしまいなさい」
「そこまでして産まなくてもいい」
このように言われたそうです。

困った父と母は、その後どうしたかというと。
身重の母を残し、父1人で出稼ぎへ行く決断をするのです。
この決断のおかげで、私は無事生まれることができました。

私がこの話を聞いたのは、まだ高校生になるかならないかの頃です。
とてもショックを受けた。自分自身を全否定されたようだった。
言いようのない感情が押し寄せてくる。

そして母は母で、日頃からこのように私へ言っていた。

「他の孫(私にとっていとこ)は、可愛がるけどウチの子には冷たい」
「他の孫には色々買ってやってるけど、ウチの子には何もしてくれない」

それまでは漠然とだけど
「私は、じいちゃんばあちゃんに好かれてないのかな」
と思っていた。けれども。

この「堕ろしてしまいなさい」という言葉で確信に変わる。
そうか。そうだったんだ。
生まれる前から、私の存在は拒否されていたんだ。

じいちゃんばあちゃんは、私なんかいなくてもよかったんだ。
嫌いだったんだ。どうでもよかったんだ。
死んでもよかったんだ。可愛くなかったんだ。

別にいいよ。どうせ私だって、好きじゃない。
嫌いだもん。

短絡的にそう考えた。
そして、勝手に自分で憎しみを増幅させた。
私は、祖父母と完全に距離を置くようになりました。

家へ遊びに行く事はなくなり、顔を合わせても喋らなくなる。
挨拶は頭を少し下げるだけ。一切言葉を交わさない。
姿を見かけたら、逃げるように走り去る。とにかく避けるようになった。

『私は嫌われている』
完全に、ひとりよがりな思い込みをして、ひとりでふてくされていた。

祖父母はというと。
突然、よそよそしくなった孫(私)の態度に、戸惑っていたかもしれません。

続きます。

過去のこと | 08:16:36
嫁舅問題が与えた影響
前回の続きです。

何をやっても、いつも失敗に終わる叔父。

一度目の失敗で懲りて、大人しく家業を継げばいいものを。
それでもやっぱり、農家だけは嫌だったようです。
絶対に家業を継ぐとは言わない。

そこで祖父は、仕方なく次男坊である父に家業を継がせた。
自分が持ってた畑半分と、古い家を父へ明け渡した。
ほどなくして、お見合いをして母と結婚します。

そして1年後、私が産まれました。
祖父の家は、私の実家のすぐ近く。300mほど後ろにあります。
小さい頃の私は、よく祖父の家へ遊びに行ってました。

畑仕事をしてる祖父母へ駆け寄って、まとわりついてもいた。
しかし、段々とそういう交流が無くなってきます。
なぜなら、母がいい顔をしなかった。嫌がるふしがあったから。

母と父方の祖父母の関係は、あまり芳しくなかった。
元々、体が丈夫ではない私の母。
30代から40代にかけて、何度か入退院を繰り返してきました。

その度、祖父母へ家事をお願いしたり、畑仕事を手伝ってもらっていた。
私は直接聞いたことありませんが、母はこのように言われたそうです。

「なんでウチの嫁さんだけ、こうも体が弱いんだろうね」
「俺らは、病気になるヒマなんてなかったけどな」
「病は気から、って言うでしょう。気持ちを強くしなくちゃ」

多分ですが。祖父母の気質上、たいして深く考えず言ったと思われます。
思い付いたことをそのまま言葉にする。相手がどう思うかまで配慮しない。
けど、言われた方は、そうはならない。

ウチの母は、言われた言葉を気にするし、とても根に持つ。
「私だって、なりたくて病気になってるわけじゃないのに」
と、かなり憤慨して不満や愚痴をこぼしていました。

そして、適当に聞き流せばいいものを
「お義父さんだって、いつ病気になるかわからないんですよ。
 それに年を取って、寝たきりにならないとも限らないでしょう」
と、やり返したらしいです。すると祖父は

「俺は、絶対に病気にならん!年を取っても子供達の世話にはならん!」
と豪快に言い放ったそうです。

祖父はとても頑固者です。自分は裸一貫から這い上がってきた。
誰のちからも借りずにここまでやってきた。
そういった自負もあり、他人の言葉を素直に聞き入れることができない。

祖父母は、どちらもちょっと無神経なところがあった。
母は母で、言葉を悪い方へ受け取り、くよくよ悩むところがあった。
今だったら、お互いの気質の違いが見えます。

双方の言い分もわかる。どっちもどっち。
片方だけが悪いわけではない。
けど、まだ子供だった私にとっては、母親の言葉が全てだった。

祖父母への不満を口にする母を見て
「お母さん可哀想。じいちゃんやばあちゃん、なんで優しくしてくれないんだろう」
と、次第に祖父母への気持ちが悪化していきます。

心理的にも、物理的にも、祖父母との距離を置くようになっていきました。
そんな矢先、母から思いもよらぬ事実を告げられます。

続きます。

過去のこと | 08:20:48
ダメ人間の作り方
次男坊で、何かと不遇を強いられてきた祖父。
祖父はその考え方が嫌で、生家と絶縁したはずでした。

しかし。
いざ自分が親の立場になると、その考えが変わったのか。
長男を猫可愛がりするようになった。
全てにおいて、長男と次男の扱いに差をつけるようになった。

父は3人きょうだい(兄・父・妹)の2番目です。
そして、この中でなぜか父だけが、高校へ進学していない。
長男だけが進学した、ならわかる。けど、妹も進学させた。

中学の同級生は、みな進学し高校で学校生活を送る。
家からもまた、毎日兄や妹が高校へ通う。
それを横目で見つつ、自分ひとりだけが畑仕事を手伝う日々。

祖父がなぜ、そのようにしたのか理由はわかりません。
自分自身、次男坊の冷や飯食いを経験してきた。不満を持っていた。
それなのに、同じ次男である父への態度は厳しかった。

父は穏やかな気質なので、あからさまに祖父を悪く言う事はありません。
けれども、これだけは今でも言います。
「金や家なんかいらないけど、高校にだけは行きたかった」と。

本当は、叔父が高校卒業後に家業を継ぐはずだった。
しかし「農家は嫌だ」と言い、家を出て自分で起業した。

この叔父は、コツコツ働くことのできない人です。
楽して銭儲けしたい。濡れ手で粟。一攫千金を狙う。
今もそうですが、真面目に働く人間をどこか小馬鹿にするところがある。

人に使われて仕事するなんてまっぴらごめん。
人に頭を下げるものごめんだ。俺はそんな人間じゃない。
そう言い、次から次へと色んな事業を起こします。

最初はパチンコ店。その次はタクシー会社。
次は喫茶店経営。様々な事業に手を出しました。が。
全て最後は、借金をこさえて撤退することとなります。

その度、祖父へ泣きつき援助してもらってきた。
祖父も祖父で、突っぱねればいいものをいつもハイハイと援助してきた。
けど、働くこと自体が嫌いな人間に、商才などあるわけがない。

農家だろうが、一般の事業だろうが関係ない。
成功してる人は、見えないところで人一倍の努力をしてる。
そんな事もわからない叔父へ、いくら援助したって無駄なのに。
なんというか。余りにも甘すぎる。

ちなみに。この叔父は、とてもだらしのない人です。
祖父ばかりか、私の父からもかなりの額、お金を引っ張ってます。
しかも身内だけならともかく、友人知人からも借金をしまくってる。

そして、その全てを返済してません。今も。
こんな調子なので、資産らしい資産は何一つ持ってません。
おまけに国民年金や保険も、一切掛けてきていないという話。

私から見ると本当に「コイツ、人間のクズだわ」としか言いようがない。
と同時に。子供をダメ人間にしたければ、とことん甘やかせばいい。
欲しいものはどんどん買い与え、やりたい事を考えなしにやらせればいい。

祖父と叔父の関係を見て、そう思いました。

続きます。


過去のこと | 08:52:02
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